文化部 – 21世紀の女の子

20190212-21st-main[1]オムニバス映画「21世紀の女の子」2019年公開 監督:山戸結希ほか

出会いは、なんとなく図書館で借りた2018年11月号の雑誌『装苑』でした。

それはそれは衝撃的な出会いでした。
脳天に突き刺さるような煌めきの圧倒的な語彙と、心底響く深い文章群にただただ感銘しました。
新たな境地が拓けたかのような心揺さぶられるような感動が押し寄せました。

もうね、びっくりしちゃった。

ここだけの話、神様によると、”たった一度、21世紀に、一か八かの波が来る”ということでした。21世紀に頑張れたのならば、もっと女の子が輝く星になるよ。ただし、もしも、この波を逃したら、これ以上はない。そのくらいのチャンスを君たちにあげるよ、と。その波に、私たちは手を取り合って乗り込むことができるでしょうか。私たち自身の、固有の命を炸裂させながら。

そうか、私は、何者である前に、まず、21世紀に生きる女の子なんだ、って思いました。
”女の子であること”が私たちの原動力なんだ、って思いました。

『21世紀の女の子』は15人の若手女性監督が紡ぐオムニバス映画。その監督たちに聞く、”21世紀にものづくりをする素晴らしさって何ですか?”そこにある言葉の数々が本当に胸を打つのです。

好きなひとがいた。好きがなんだかわからなった。
大切なものをこの手から手放した。大切にできなかった。だれかとの関係が今日、おわった。
ひとりの夜が、かなしかった。
そんな全てを溶かしてくれる瞬間がある。
ある種の自己満足的な表現が、名前も知らない誰かの心を泣かせることがある。

どうしてこうもいちいち心に刺さってくる言葉の数々なのだ。
ああ、常に表現者でいたいと思いました。女の子であることだけで、ある一種の共感があるのかもしれない。

枝優花さんからの手紙は、本当に一言一句すべてに、っはあ~~~~、ってなるのでここには載せきれないのですが、気になる方は是非読んでみてください。自分が本当に好きなものを、本当に愛せばよいのだと思わせてくれます。そして、21世紀とは、それが許される時代なのだと。多様性が許されるからこその制約には縛られず、目の前にある、どうしようもなく追い求めたいもの、抱きしめたいと思います。

21世紀は20世紀に比べて明らかに”表現すること”がとても身近になり、全人類総クリエーター現象と言っても良い、アカウントという部屋を自分の色で飾ることが当たり前になった。

私が今危惧しているのは、元ネタを知らずに表面的な2次創作、3次創作物でも疑問を持たない人が培養され続けていること。最新は毎秒更新され、1スクロールで過去になる今だからこそ、これからの表現者は尚更、流行りに前へ倣えせずに、温故知新の精神も忘れてはならないし、芸術家は人にも時代にも感情にも鈍感であってはならない。

もう、その通りとしか言えたもんじゃないが、今を生きる私たちが忘れてはいけないことだと痛いほど感じた。

暇つぶしのインスタのスクロールが、私に今何を与えているのだと自問自答した結果、アンインスト―スするという結論に至ったことが今までに少なくとも3度はある。うまく使いこなし、効率よくかつ豊かに生きるためのツールになるのなら良いのだが、無意味な時間に置き換わる私の使い方は到底称賛されたものではない。TwitterだとかFacebookだとかをやっていないのに、週間のスクリーンレポートに3時間とか出ると、ぞっとする。これが私がスクリーンに垂れ流した時間なのか。

表現って、自分の中だけでは抑えきれなくなった何かを発露させる行為だと思うのですが、何もそれは芸術分野に限らず、好きなお洋服を着る、タトゥーを入れる、思ってもいないことを言わない意思、だとか。なんでもあります。たいていの表現は本来、人にとやかく言われるべきではないのです。

自分の中では抑えきれなくなった何か、持ち続けていたい。常に感動に敏感に、美しさに愚直にいたい。そしてそれを表現したい。そのためのツールを持っていたい。視覚的なものに縛られず、私の感動はことによると卒論とかに、なるかもね。

まあ、そんなこんなで !!!!はああああああ!!!!と装苑に感化された私は、『21世紀の女の子』上映会に行ってきましたよ。S__70262830.jpg??!!!?!!?!山戸さん、何なのこの人??!!!?この語彙はどこから生まれるの??!!という感じでした。一生かけても理解できるかわからない、だのに言い得ていて的確な表現の言葉の羅列で作品の紹介をして、話を振って、感想を言って、??!!?日常的に、瞬発的に出てくる言葉がこれってどゆことなの???!!って。うん、ほんとに。

山戸さんが気になりすぎて、『溺れるナイフ』を観てしまったくらい。これもねえ、もお本当に良かった。この映画の紹介はまたいつかしますね。

作品についてはいろいろとらえ方はあると思いますが、正解を言わないような、もともと正解を求めていないような、監督自身納得しないことを表現しているような、見ている側の心のどこか記憶の片隅にはっと色が重なる瞬間を求めているような、総じていうならば女の子が感じている性的な柔らかさや、はたまた苦しみを、感性のままスクリーンに映し出していた、という感想です。

美しかった。瞳が光った。よく考えた。頑張ろうって思えた。

最後に、泣きたくなるほどの山戸さんの、ステキなお言葉を紹介して終わります。

私たちはいつも、そんなに頑張らなくても良いんだよって、お互いに言いたくなるような、走りっぷりですね。でも、絶対にそうは言わないつもり。どうか、一緒に、頑張りましょう。一緒に、この世界を変えましょう。それが子どもっぽい希望ならば、女子どものたわ言ならば、私はずっと「女の子」のまま老いてゆくので構いません。A・Iの感度よりも疾く、インターネットに溢れる憎しみより深く、目の前のあなたを愛していたいのさ。今を逃したら、これ以上はありません。ああ、間違いなく。

(2019/4/15)文責:ひな

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