
43の研究施設が集約された筑波研究学園都市という街の特色、そして、研究施設が行っている研究を世の中にアピールしようという思いに通じるように、当時の科学技術省が国際科学技術博覧会という構想をまとめた。その折に東京に呼ばれたのが、当時茨城県職員だった岡田副市長だ。
万博開催のためにつくられた国際科学技術博覧会推進協議会という民間団体の一員となった岡田副市長は、科学技術立国を提唱した上司、土光敏夫さんのもとで資料作成や内閣との予算交渉などの準備に明け暮れた。
そんな岡田さんの準備の成果もあり、1979年11月BIE(博覧会国際事務局)への申請が完了し、万博の開催が正式に決定した。
その後、83年に茨城に戻った岡田副市長は万博に出展する県の施設である茨城パビリオンの準備に追われた。
そして、85年3月、日本で3番目となる国際的な万博、「国際科学技術博覧会」が幕を開けた。携帯電話・ハイビジョンテレビ・ピアノを弾くロボットなど、当時の日本の科学技術の最先端を集めたこの科学万博は184日間で2000万人超の入場者数を記録し、つくばの名前を一気に世界に広めることとなった。
「この万博がその後の日本の一つのターニングポイントになったと思う」と岡田副市長は話す。
編集部は、自身の科学万博との関わりを話してくださった岡田副市長に、つくばについての質問をしてみました。
編:30年前と今でつくば市が変わったところはありますか?
岡:まずは、鉄道ができたこと。ただ、ものすごい反対もあったわけ。ストロー現象が起こって、全部人が東京に吸い込まれてしまうと思われていた。だから、鉄道はつくらないほうがいいだろうという意見の人が大勢いた。だけど今は、下りも大勢乗っている。鉄道によって物理的に人の流れ、そしてつくばに対する見方も変わって。
あと、「俺たちはつくばの人間だ」という誇りを持っている方が増えているのかなと感じる。この30年のつくばの歴史を見た時に、つくばが日本の成長戦略に大きく貢献しているということ、それを具体的に提示していくことがつくばの誇りになっていると思う。
あとは、世界との絡み・イノベーションとの絡みをいかにここから発信していくかということを、大学や研究施設の人たちと連携してできるようになったことが、ものすごく変わったところ。これからも、もっともっと大学や研究施設と連携を深めていきたい。
編:続いて、岡田副市長が思うつくばの好きなところを教えてください。
岡:松美公園口から筑波大に入るところの並木道がいいよね。国道408号線の並木道もいい。すーっと立っている並木が好きだね。あとは、食べ物屋さんが増えたことだね。万博の頃は本当に行くところがなかったから。フランス料理やイタリアン、ワインのお店も多くなった。赤ちょうちんが下がっている居酒屋がもっと増えてもいいけどね。
編:これからのつくばがどんな街になってほしいですか。
岡:この50年間は科学技術を核にして動いてきた。それで、次の30年50年で科学技術の次に核になるのは何なのかと言うと、スポーツや文化や芸術や自然や環境だろう。そういったものをいかに大事にするかということを提起できる街が、成熟した街になるんだろうと思う。
つくばは、研究学園都市を作ろうとしたその時のスタートラインから科学万博の成果を継承していって、どういう街づくりをするかということを模索しながら成長している。そこからつくばの持っている可能性・ポテンシャルをどんどん発揮できるような成長をしていけたらいいと思うな。

[15/12/01]
デザイン:せんりんご
技術:かーぎ